日本の古典芸能

あらためて見まわしてみると、日本は世界でも有数の「芸能大国」です。
「世界無形遺産」に指定されている、能楽(能・狂言)、人形浄瑠璃文楽、歌舞伎を始め、 世界レベルで見ても、高度で独自性が強い芸能が、数多く、しかも全国各地にあります。

能「羽衣」(山井綱雄)

能楽

能と狂言は、切っても切り離せない関係にある芸能で、二つを合わせて「能楽(のうがく)」といいます。

能は600年の歴史がある日本最古の歌舞劇です。時代とともに少しずつ変化し、 今のような姿になったのは江戸時代<1603-1867>中期。 将軍や大名をはじめとする武士たちによって磨き抜かれた能は、武家の精神と美意識の結晶といえます。

能は、ミュージカルと同じように音楽やダンスが入ることから“日本のミュージカル” ともいわれます。音楽の中で、演奏は「囃子(はやし)」、歌は「謡(うたい)」と呼ばれ、 西洋音楽とはまったく違う形式です。ダンスは「舞(まい)」と呼ばれ、 足を床から離さずに平行移動する足運びを基本とし、動きも抑え気味で静かです。 もう一つ、ミュージカルと大きく異なるのは、基本的に、男性による仮面劇であるという点です。

また能と歌舞伎は混同されることもありますが、実際には対極の芸能といっていい。 歌舞伎が、時代とともに変化し続ける“永遠に未完成の芸能”であるのに対し、 能は一度肉づけしたさまざまな要素が極限まで削ぎ落とされたことによってできあがった“完成された芸能”です。

能は日本を代表する芸能で、文楽(ぶんらく)、歌舞伎、沖縄の組踊(くみおどり)など、 その後の芸能に大きな影響を与えています。

狂言は、能と同じく能舞台で演じられる喜劇性の強い芸能です。喜劇的な部分だけが強調されがちですが、 笑いの中に人間の喜怒哀楽すべてを包み込んでいます。セリフ劇でありながら、能と同じように歌舞の要素も散りばめられています。 幅も奥行きもある、芸術性の高い芸能です。

能と狂言は、古くは一つの芸能でしたが、室町時代<1336-1573>に歌舞を中心とした能とセリフ劇である狂言に分かれました。 狂言が今のような姿になったのは江戸時代中期。能とともに、大名を中心とした武家の好みに合わせ、芸術性の高い芸能として完成しました。

狂言は能に比べると初心者にもわかりやすい。能の上演時間が1曲1時間以上なのに対して、狂言は20~30分のものが多く、気軽に楽しめます。 そのため、最近では狂言だけの公演も多い。

能・狂言は「能楽」として、2001年にユネスコによる第一回の「人類の口承及び無形遺産の傑作(世界無形遺産)」に、日本の芸能で最初に宣言されました。 そして2008年には「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に、人形浄瑠璃文楽、歌舞伎とともに登録されました。


-「英訳付き 1冊でわかる日本の古典芸能」(淡交社)をもとに編集-

文楽「祇園祭礼信仰記」(桐竹勘十郎) 国立劇場蔵

文楽

「文楽(ぶんらく)」とは、「浄瑠璃(じょうるり)」という語り芸に合わせ人形が動く人形劇「人形浄瑠璃」の中で、 大阪で演じ続けられて来たものをいいます。3人の人形遣(つか)いが一つの人形をあやつり、舞台の向って右手にある「床(ゆか)」では、 三味線(しゃみせん)に合わせ、語り手である「大夫(たゆう)」が浄瑠璃を語ります。

大阪の人形浄瑠璃が飛躍的に発達したのは、江戸時代中期の元禄期<1688―1704>。 この時代に活躍した近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)と竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が手をつなぎ、 現在の文楽につながる劇的で芸術性の高い芸能に仕立て上げました。 そのため、アマチュアの民俗芸能として受け継がれている全国各地の他の人形浄瑠璃と違い、 プロの芸能として高度な音楽・劇作・人形の操作技術を有します。世界でも最もレベルの高い人形劇といっても過言ではありません。

大阪の人形浄瑠璃が「文楽」と呼ばれるようになったのは、それまでいくつかあった大阪の人形浄瑠璃の小屋が、 大正時代<1912―26>には文楽座だけになったため、いつのまにか「大阪の人形浄瑠璃=文楽」ということになりました。 最近では、「人形浄瑠璃」という言葉が忘れ去られ、広く人形浄瑠璃一般を「文楽」と呼ぶようになって来ています。

2003年に「人形浄瑠璃文楽」として「人類の口承及び無形遺産の傑作(世界無形遺産)」に宣言されました。 そして2008年には「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に、能楽、歌舞伎とともに登録されました。


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歌舞伎「勧進帳」(中村梅之助)©前進座

歌舞伎

「演技や音楽はもちろんのこと、舞台美術や衣裳にいたるまで、洗練された“様式美”に満ちあふれているのが「歌舞伎(かぶき)」です。 江戸時代に大きく花開いた町人文化の中で育まれた歌舞伎は、敏感に時代の流れをつかみながら、 いつまでも新しい試みに挑戦し続ける“永遠に未完成”の芸能でもあります。新しい試みのいくつかが次の時代に受け継がれて行き、 それが年月を経て定着して行きます。それが約300年あまりの歴史ある古典芸能でありながらも、芸能としての鮮度を保ち続けている秘けつです。

初期の歌舞伎は女性が演じていましたが、現在はすべて男性。男役の役者は「立役(たちやく)」、女役の役者は「女形・女方(おんながた)」と呼ばれます。 立役には、専門の役者もいれば、女形を兼ねる役者もいます。

歌舞伎の演目は、「芝居(しばい)」と「舞踊(ぶよう)・舞踊劇」の2本柱。現在では、芝居2本の間に、舞踊・舞踊劇が1本入るプログラムが一般的です。 舞踊はもちろん芝居にも、三味線(しゃみせん)を中心とした伴奏で、長唄(ながうた)あるいは義太夫(ぎだゆう)をはじめとした語り物などが入り、華やかな舞台がくりひろげられます。

歌舞伎は、2005年に能楽(のうがく)、人形浄瑠璃文楽(にんぎょうじょうるりぶんらく)に続き、「人類の口承及び無形遺産の傑作(世界無形遺産)」に宣言されました。 このことは、歌舞伎が能・文楽からも作品を移入し、発展をとげてきたことを物語っています。 そして2008年には「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に、能楽、文楽とともに登録されました。


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雅楽「還城楽」(南都楽所)

雅楽

「雅楽(ががく)」とは、平安時代<784―1185>中期に体系化された日本最古の音楽と舞(まい)です。一口に雅楽といっても、実は非常に幅が広い。 多くの人が雅楽として思い浮かべるのは、その一部にしか過ぎない「唐楽(とうがく)」と「高麗楽(こまがく)」です。 「唐楽」は中国など大陸から、「高麗楽」は朝鮮半島などから伝来した音楽を平安時代の貴族が大幅に作り替えたもので、内容的には日本独自の音楽といっても過言ではありません。

雅楽には、唐楽・高麗楽のほか、あまり知られていませんが、宮中(きゅうちゅう)の神楽である「御神楽(みかぐら)」、「久米舞(くめまい)」「東遊(あずまあそび)」「倭舞(やまとまい)」など古来から日本各地に存在した歌舞の「国風歌舞(くにぶりのうたまい)」、平安貴族が生み出した「朗詠(ろうえい)」「催馬楽(さいばら)」などの歌謡の「歌物(うたもの)」もふくまれます。

形式としては、音楽だけを演奏するものを「管絃(かんげん)」、音楽に舞がついたものを「舞楽(ぶがく)」といいます。舞楽には、舞楽面をつけて舞う曲もあります。

本来、「雅楽」という言葉は、儒教(じゅきょう)思想に基づき中国の宮廷で祭祀の時に演奏されていた音楽のことを指しました。 「礼」(社会の秩序を守る規範)と「楽」(音楽)は関連があり、この2つが正しく行われれば、国も安泰であるという、孔子(こうし)が唱えた「礼楽思想」に基づきます。 この思想は、日本のほか朝鮮半島、林邑(りんゆう-現在のベトナム)、琉球(りゅうきゅう-現在の沖縄)など周辺諸国にも伝わりました。

中国の雅楽は、大勢の人が登場して野外で行われていました。 中国では継承されていませんが、「世界無形遺産」に指定されている韓国の「宗廟(そうびょう)先祖のための儀礼及び祭礼音楽(宗廟祭礼楽)」に、その面影を見ることができます。

日本には「雅楽」という言葉だけが伝わり、中身は伝わりませんでした。 日本に雅楽としてもたらされたのは、実は「宴楽・燕楽(えんがく)(燕楽)」と呼ばれていた宮廷の娯楽の音楽だったと考えられています。

雅楽は、長く宮中や神社・寺院での儀式の中で受け継がれて来ましたが、最近では芸術的にも注目されており、コンサートホールなどでも公演されています。


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里神楽「八雲神詠」(市場神代郷神楽萩原社中)

神楽

日本人なら誰でも名前は知っているのに、よく実態が知られていないのが「神楽(かぐら)」です。 その名の通り神楽は、神さまのための芸能で、神事(しんじ)として舞と音楽が演じられます。 大きく分けて、宮中(きゅうちゅう)で「雅楽」の一環として演奏される「御神楽(みかぐら)」と、民間に伝わる「神楽」があります。ここでは民間の神楽を取り上げます。

神楽は、全国各地いたるところにありますが、その中身はさまざま。いつ頃から始まったのか、歴史的経過がはっきりしないものも多い。 神楽は、人々が神を迎える場所である「神座(かむくら)」を浄めるための音楽であり、神をもてなすための音楽です。神はどのような芸能でも喜ぶとされます。 従って極端な言い方をすれば、神座で行われる芸能をすべて神楽ということになります。だから、多様な神楽があっても不思議ではありません。

神楽は、神に仕える巫女(みこ)が舞う「巫女神楽」、国生み神話にのっとった劇的な構成の「出雲流神楽」、 神座を浄めたり神に捧げるための湯を沸かす釜のまわりで舞う「伊勢流神楽」、神が宿った獅子頭(ししがしら)をつけて舞い悪霊を追い払う「獅子神楽」に大別されます。

最も一般的なのは、巫女神楽と出雲流神楽です。巫女神楽は全国各地の神社でひろく行われています。 また、出雲流神楽には、島根県の「石見(いわみ)神楽」、岡山県の「備中(びっちゅう)神楽」、宮崎県の「高千穂(たかちほ)神楽」、 東京を中心とした「江戸里神楽」など全国的に知られた神楽も多い。

神楽で用いられる楽器は、笛、太鼓、締太鼓(しめだいこ)、銅拍子(どうびょうし-シンバル風の打楽器)など。笛と太鼓の掛け合いで、曲はテンポよく進みます。


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声明「大曼茶羅供」(高野山声明の会)

声明

仏教儀式の中で唱えられる経典(きょうてん)に旋律がついた無伴奏の声楽が「声明(しょうみょう)」。キリスト教における聖歌と同じと考えるとわかりやすい 。声明は仏教・経典とともにインドで生まれ、日本へいつ伝わったかは定かでありませんが、原型となるものは6世紀半ばに仏教が伝来したと同時に大陸から伝わったと考えられます。 のちの謡曲(ようきょく)、浄瑠璃(じょうるり)などに影響を与え、“日本の声楽の原点”ともいわれます。

中国では、古代インドの言語サンスクリット(梵語)で書かれた経典を、自国の言葉(漢語)や旋律に変えたものを「梵唄(ぼんばい)」と呼びました。 それが伝わった韓国やチベット、日本でも梵唄といいましたが、日本では中世以降、声明というようになりました。

お寺には毎日のお勤めから年中行事として行われる法会(ほうえ)までさまざまな仏教儀式があり、その中で唱えながら受け継がれています。 法会の中でも、僧侶たちが行列を組み、声明を唱えながら境内を進む形式は、荘厳で見ごたえがあります。一方、葬式や法事で唱えられるお経も、身近な声明の一種です。

声明の歌詞ともいえる経典には、梵讃(サンスクリット)、漢讃(中国語)、和讃(日本語)の3種類があります。 声明は無伴奏が基本ですが、部分的に木魚(もくぎょ)や鉦(かね)などの仏教楽器(法具ともいう)を鳴らします。 中国・韓国・チベットなどではその演奏がにぎやかで、韓国では、梵唄に合わせて仏教舞踊を舞います。


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日本舞踊「水仙丹前」(藤間恵都子、水木佑歌)

日本舞踊

「舞踊」という言葉は、意外と新しい。近代になって「舞(まい)」と「踊(おどり)」という、本来は別々な動きを表す言葉を合体させて作られました。 舞は摺り足による平行移動と旋回運動を主とします。踊は跳躍運動が中心で動きに制約が少ない。

「日本舞踊」でいう舞は、おもに京・大阪など上方(かみがた)を中心に座敷舞から発達した「上方舞(地唄舞(じうたまい))」、 踊は歌舞伎から生まれた「歌舞伎舞踊」の流れを汲むものをさします。沖縄の琉球(りゅうきゅう)舞踊や全国各地に伝わるさまざまな民俗芸能の舞や踊はふくまれません。

同じ曲でも、舞踊家が踊る場合は「日本舞踊」、役者が歌舞伎の興行の枠内で踊る場合は「歌舞伎舞踊」と呼ばれたりします。

日本舞踊の流派は「舞踊家の数だけある」といわれるほど多く、流派の規模はまちまちです。家元(いえもと)のほかに、宗家(そうけ)が別にいる流派もあります。 家元が亡くなると、有力な弟子たちがそれぞれに分派して家元を名乗る例もあります。弟子には花街の芸妓(げいぎ)のほか、趣味として習う一般人も多い。

日本舞踊の伴奏音楽は、いずれも三味線(しゃみせん)が中心で、長唄(ながうた)、地唄(地歌)などの「うた物」と、 河東節(かとうぶし)、義太夫(ぎだゆう)、常磐津(ときわづ)、富本(とみもと)、清元(きよもと)などの「語り物」に分けられます。

「上方舞」は、地唄舞の別名もあるように、三味線を弾きながらうたう地唄が伴奏音楽。「踊」では、長唄、常磐津、清元を伴奏音楽とする曲が多い。


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女踊「伊野波節」(宮城能鳳)

琉球舞踊

沖縄は、明治12年<1879>に沖縄県が設置されるまで、琉球(りゅうきゅう)王国として独自の文化を作り上げていました。それを受け継いでいるのが「琉球舞踊(琉舞(りゅうぶ))」。 京都・大阪を中心とする上方(かみがた)の「地唄舞(じうたまい)」とならぶ、地方色豊かでありながら、芸術性の高い舞踊です。

琉球舞踊は、舞踊劇形式の「組踊(くみおどり)」と、純粋な舞踊の「端踊(はおどり)」に大別されます。「端踊」は、次の3つに分けられます。

① 琉球王朝の式楽(しきがく-儀式用の音楽)として、士族たちによって育まれた「古典舞踊」
② 明治維新で王朝が崩壊した後に、古典舞踊を基本として作られた大衆的な「雑踊(ぞうおどり)」
③ 戦後の作品である「創作舞踊」

音楽の中心になっているのは沖縄独自の楽器「三線(さんしん)」。これは中国の三絃(さんげん)を改良して作られたもので、本土の三味線(しゃみせん)のもとになった楽器でもあります。 交易国家・琉球王国が、文化の中継基地でもあったことの象徴です。

沖縄では、芸能が生活に根づいており、見るというより、自分でするものという感覚が強い。 街には「琉舞道場」などと書かれた教室の看板があちらこちらに掲げられ、冠婚葬祭では、三線を弾いたり、舞踊を披露する人も多い。 しかし、2004年に、那覇市の近郊の浦添(うらそえ)市に「国立劇場おきなわ」が開館したのをきっかけに、舞台芸術として鑑賞しようという機運も出て来ています。


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ウポポ(アイヌ歌謡)「サランペ」(マレウレウ)

アイヌの歌と舞踊

アイヌ民族は、日本の先住民族であり、150年ほど前までは、北海道、千島列島、樺太の南半分で暮らしていました。 アイヌの人々は、その大自然との暮らしの中で、動物や植物、雷や病気など自然のなかにあるものをカムイ(神)として考え、 そのたくさんのカムイとの関わりの中から、歌や踊りが生まれてきたと考えられています。

歌は、カムイへの祈りや願い、まじないなどから発生した「祭り歌」、人々が集まったときに遊びで歌う「すわり歌」や「即興歌」、「子守唄」などの種類があります。 踊りには、動物や植物などの仕草の物真似の踊り、労働の踊りや、ゲームが入った踊りなどがあります。

楽器は、「ムックリ」と呼ばれる口琴楽器が代表的。また、樺太アイヌに伝わる弦楽器「トンコリ」も伝承されています。

現在では、このような伝統芸能の伝承活動が活発に行われるようになり、道内で17の保存会が伝承している伝統舞踊が国の「重要無形民俗文化財」に指定されています。 同時に、伝統を軸に新しい表現をするアイヌ民族出身のアーティストも美術や音楽などの分野で活躍しています。

横浜能楽堂は、日本の古典芸能のアーツセンターであり、これらを世界に紹介する事業を展開しています。
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